武田百合子『犬が星見た』
一時期いつも持ち歩いていた。
百合子さん一行と一緒に旅をしている気分になる。
昭和四十四年、六月十日から七月四日までのロシア旅行の話。
百合子さんはいつも「あ、」と口をあんぐりしてしまうような、
新鮮でびっくりする物のとらえ方をする。
でもその表し方がいつも自然で回りくどくなくて、すかっとしている。
「バザールの入口にはバスが停められない。バスを降りて街路樹の下を歩く。赤い花模様の刺繍のある白い帽子をお下げ髪の頭にのせた女学生が二人、追いかけてきて
『どこからきたの?』と問いかける。『私は日本人』立ち止まって、いつものように私は答える。女学生たちは、私の服や麦わら帽子にそうっと触る。こんな親しみに溢れた笑顔や声のかけ方をする若い女に、私は東京で会ったことがない。」
「主人が波打際から私を呼ぶ。
妙に冷え冷えとした海だという。もう上がるから黒海で泳いでいるところを写真に撮ってくれという。
もう一度水に入っていって、肩を沈める。海岸には日光浴の群がひしめいているのに海には誰も入っていない。黒々とした、とろりとした海の中から首だけの主人がこっちを向いて笑った。私は写真を撮った。」
「暗い浜には、犬と一緒の盲目の大男、老人夫婦、家族連れなどが、海に向かって脚を投げ出している。ギターを抱えた男が混っている五人連れの前を通ると、キタイ?ベトナム?と声をかけられた。日本人だと答えたら、早速『恋のバカンス』を歌いはじめた。わるいから並んで坐って歌い終わるまで聞いていた。
『パジャールスタ、ヤポンスカヤ……』
日本の歌を歌ってくれないか、といっているのかな。何故だか、私は恥ずかしくなかったから、美空ひばりの『越後獅子の唄』を歌った。アンコールしてくれたので、ちょっと考えて、もう一曲、美空ひばりの『花笠道中』を歌ってしまった。」
朴訥としているような、それでいて無邪気なような。
百合子さんの側にはいつも夫 泰淳さんがいた。
もちろんこの旅行にも。
そしてこの旅行にはもう一人、泰淳さんの親友の竹内好さんもいた。
旅はもうとっくに終わっているけれど、私はずっとこの三人と旅をしていたい。
読み終わってもまた最初から、または途中から旅を始める。
百合子さんのあとがきも素敵だし、
「文は人なり、という言葉がある。」
で始まる色川武大さんの解説にも圧倒された。
大切な本。これからも長くたくさんの人の目にふれますように。
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